「家庭の事情で」「キャリアアップのため」「体調を考えて」。退職者が会社に残していく理由は、たいてい、当たり障りのないものです。そして多くの経営者は、その言葉をそのまま受け取り、対策を立てます。
しかし、もしその理由が本音でないとしたら——打つ手は、ことごとく的を外していることになります。実際、データは、建前と本音の間に、はっきりとした断層があることを示しています。
01 — 断層退職者が告げる理由は、本音ではない
会社への届出をもとにした公的な調査では、退職理由の上位は「労働条件」「給料」「人間関係」と並びます。ところが、退職者に匿名で「本当の理由」を聞いた調査では、順位が変わります。
- 労働条件
- 給料
- 人間関係
- 職場の人間関係
- 給与
- 会社の将来性への不安
そして、もっと重要なのは、本当の理由を会社に伝えなかった人の「伝えなかった理由」です。最も多いのが「円満に退社したかったから」、次いで「話しても、どうせ理解してもらえないと思ったから」。つまり、去る人は、わざと本音を残していかないのです。
ここに、最大の落とし穴があります。経営者は、本音ではない退職理由を集計し、それをもとに対策を立てている。「給料が理由」という建前を真に受けて賃上げをしても、本当の理由——人間関係や将来性——は手つかずのまま。だから、手を打っても人は辞めていく。「うちは手を尽くしているのに、なぜ」という違和感の正体は、ここにあります。
02 — すれ違い「来た理由」と「辞める理由」は、違う
本音の退職理由が「人間関係・将来性・成長」だとすると、なぜ賃上げ中心の対策が空振りするのかが見えてきます。ポイントは、人が会社に「来る理由」と、人が会社に「残る理由」は、別物だということです。
応募の段階では、給料や休日は分かりやすい比較材料で、強く効きます。だから採用では賃金が効く。ところが入社後、人を引き留めるのは、入る前には見えなかった要素——上司との関係、成長の実感、この会社に未来があるか——です。賃金は、入口(採用)には効くが、出口(定着)には効きにくい。賃金で釣って採った人は、より高い賃金にまた釣られて去っていきます。
賃上げが「効いている実感がない」会社は、入口に効く薬を、出口の病気に処方している。
もちろん、相場から明らかに低い賃金は、それ自体が問題です。けれどそれは「最低限の前提」であって、定着の決め手ではない。決め手は、入ってからの体験の側にあります。
03 — 構造採用・育成・評価が、バラバラに動いている
では、人が辞めずに伸びる環境は、どう作るのか。多くの会社の失敗は、採用・育成・評価が、別々の担当者によって、バラバラに運用されていることにあります。
こんなすれ違いが、どの会社でも起きています。採用面接では「あなたが活躍できる」と語る。しかし入社後は、育成の仕組みがなく「見て覚えろ」で放置される。やがて評価の時期が来るが、基準は古いまま実態に合わず、頑張りが報われない。——採用が交わした約束を、育成と評価が裏切る。人は、この「約束と現実のギャップ」で辞めるのです。第1章で見た本音(人間関係・将来性)の多くは、突き詰めれば、このギャップから生まれています。
だから、人の問題は、個別の施策——採用強化、研修導入、制度改定——の足し算では解けません。採用で語ることと、入社後に起きることと、評価で報いることが、一本の線でつながっていること。そのとき初めて、社員は「ここにいる理由」を実感できます。
人口減少が構造化したいま、外から「いい人」を採り続けて穴を埋める戦い方は、もう続きません。これからの組織は、いま社内にいる人が、辞めずに、より高い価値を出せるように設計するしかない。その第一歩は、賃上げでも求人広告でもなく、「本当の退職理由を、正しく掴むこと」から始まります。